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校祖下田歌子先生のご命日にあたって 2024年10月08日

 本日は校祖下田歌子先生のご命日にあたります。下田歌子先生は、昭和11年10月8日午後11時に、青山北町の御自宅にて永眠されました。女性を応援し続け、女子教育に生涯を捧げた82年の生涯でした。
 同年10月13日、神式により学校葬が執行された時には、教職員、生徒一同の号泣、悲嘆は学園に満ち満ちたと伝えられています。ご遺骨は同14日に文京区の護国寺に埋葬されました。さらに同年12月6日には故郷の岐阜県恵那市岩村にある乗政寺山墓地に分骨埋葬されました。隣にはご主人であった故下田猛雄さんのお墓があります。本年は、校祖の没後88年目にあたります。
 ご命日にあたり、校祖下田歌子先生の生涯のご業績を振り返りたいと思います。
 

 校祖下田歌子先生の生涯の業績を俯瞰すると、大きくいくつかの分野にまとめることができると考えます。第一にあげるべきは、もちろん女子教育者としての側面です。多くの困難を乗り越えて、女性の社会的な地位向上のための基礎(女子教育の礎)を築いたことです。私たちは今その財産の恩恵に浴しています。下田歌子先生は、女性の社会的な地位がほとんど問題にされなかった時代において、いち早く女性の地位向上と社会参画を目指し、その実現のための基礎が一般女性に対する教育にあることを確信し、女子教育に生涯を捧げた人物です。
 また、下田先生は、明治時代を代表する歌人であると同時に、著名な源氏物語講義に象徴される国文学者・国語学者でもありました。また、『家政学』(明治二十六年刊、明治三十三年には『新撰家政学』も)は、女性の手になるオリジナルな著作として我が国初の出版であったように、家政学者としての一面も、さらに強調されてしかるべき業績です。さらに大正期における愛国婦人会会長としての活動は、関東大震災が生んだ多くの社会的弱者に対する長期の救済活動に代表されますが、社会福祉事業家としての側面も今後、さらに評価されるべき一面です。そしてこれらは別々にあるのではなく、すべてが女子教育のために役立てられていたことが、女子教育者としての下田歌子先生の特筆すべき点です。

(白の彼岸花 西門プロムナード)

 社会福祉事業家としての先生の側面は、学園創立時からうかがえる先生の重要な側面です。本学園は実践女学校・同工芸学校の2校が発展して現在に繋がることは良く知られていることですが、同時に他に2校が設置されたことはあまり知られていません。下婢養成所と慈善女学校の2校のことです。「下婢養成所」(女子工芸学校の付属の位置づけ)は、当時の女性の召使いのための学校で「篤実忠誠なる」人物を養成する学校であり、「慈善女学校」(実践女学校の付属の位置づけ)は「孤独貧困なる女子を教育して之に自活の場を授くる」学校でした。教育を受ける機会のない社会的弱者としての女性に教育を授けたいという取り組み(事業)だったのです。ただ、この先生の取り組みは、あまりに時代に先行していたためか、この2校には生徒が十分には集まらず、間もなく閉校となりましたが、2校の設置の意味は決して小さくありません。先生の志の大きさを思います。下田歌子先生は徹底して、女性の応援者であり、社会的弱者の救済者でありました。下田先生の社会福祉事業家としての側面は、学園創立時からのものだったのです。

 生徒の皆さんには、校祖下田歌子先生のご命日にあたり、下田先生の志の大きさを思い、それぞれが高い目標に向かって着実な歩みを進めてくれることを期待しています。

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