下田歌子先生と「体育」 2023年06月23日
(中学校・高等学校朝礼講話をお届けします。)
下田歌子先生と「体育」
高等学校では球技大会が間近に迫ってきましたし、中学校では今年度の運動会実行委員も決まり準備が動き出しています。また、中高共に部活や個人競技のめざましい成果の報告も相次いでいます。
そこで本日は校祖下田歌子先生が女子教育のなかで「体育」をどう考えていたかについてお話をしたいと思います。
下田歌子先生は日本で初めてテニスをした女性?
本題に入る前に、下田歌子先生は日本で初めてテニスをした女性?という話をします。下田先生がテニスをしたなんて想像がつかないかもしれません。先生がテニスをしたことは、先生の御著書『泰西婦女風俗』(明治26年~明治28年の欧米女子教育視察において、欧米の女性に関する見聞をまとめられたもの。明治32年刊)の中に書かれています。以下の文章です。
余がウィンダーミア(湖水地方)の女学校に止宿せしは、恰も夏期休業にかからんとする頃なりき (中略) 遂に年少女子の論に勝ちを制せられてテニースを為すこととはなりぬ。その相談の有様なども極めて無邪気淡泊にして恰も我男友達の交際に似たりき。斯くて銘々勝敗を競ひて、打ち興じたれど、余はただ其方法許を心得たる程の事にて其技の拙き事物にも似ず。況て彼等が軽々と携へたる叉手は随分に重くして腕忽ちに疲るるも口惜し。やうやう一回の終わるを待ちて余は余が親愛なる草花てふ友に親しまんとて辞して花摘みにかかりぬ。
(少女たちの相談の結果、テニスをすることになった。その相談の様子は無邪気で淡泊で、まるで我が国の男友達のやりとりの様だ。試合をしたが、自分はやり方を知っているだけで技術は伴っておらず下手だし、ラケット(「叉手」)が重く腕も疲れてしまった。ようやく1回戦が終わったのでやめさせてもらい、自分は大好きな花摘みに行かせてもらった。)
この記事は、前後の記事の内容から明治27年夏の出来事です。日本では明治11年6月に、横浜の山手公園で、外国人居留地の人々によってテニスが行われました(山手公園には「日本庭球発祥之地」の碑があります)が、これは日本人とは関わりはありませんでした。
また、明治12年には文部省直轄の施設である体操伝習所で、米国人教師リーランドがテニスを我が国に紹介したとされ、さらに、明治19年には東京高等師範学校にテニス部が設けられましたが、これは男性または男性教師に関わることで、女性には関わらない出来事のようです。私も、日本のテニスの歴史と女性との関係を調べてみたのですが、明治時代にテニスをした女性の記録を見つけられませんでした。ですので、明治27年夏に、イギリスの湖水地方で、下田歌子先生が女学校の生徒とテニスをしたことは、日本女性がテニスをした最初か、極めて早い時期の例にあたると考えられます。
下田歌子先生が重視された教育の三つの柱 「知育」「徳育」「体育」
本題に入ります。下田歌子先生は、欧米各国の女子教育を視察するため、明治26年(1893)から28年まで渡欧しました。そこで先生は、欧米で女性の活躍する社会と男性と同様に運動する女生徒たちの姿に目を見張りました。日本女性もしっかりした体を作る必要があることを痛感したのです。
そして、帰国後、一般女性の地位向上のためには本校、実践女子学園を創立するわけですが、その教育の根本に「知育」「徳育」とともに「体育」を重視し、三本柱の一つと考えました。頭を鍛えること、心を鍛えること、体を鍛えることがバランス良く教育内容に生かされることを考え、実践されたのです。
実践女学校創立時の「学科家庭時間表」には「体操」の教科が第1学年から第5学年まであり、各学年とも週3時間が配当されています。この週3時間配当は「算術」「裁縫」「外国語」などの科目と変わらない配当時間です。
下田先生がメイポールダンスを導入した(おそらく直接にはイギリスからと考えられる)のも、このような考え方から明確な意図をもっての事と考えられるのです。
以上、下田先生が本校創立時から「体育」を重視していたことを確認していただき、高いモチベーションをもって、今後も「体育」やスポーツに取り組んでいただきたいと思います。