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校祖下田歌子先生のご命日にあたって 2023年10月08日

 本日は校祖下田歌子先生のご命日です。下田歌子先生は、昭和11年10月8日午後11時に、青山北町の御自宅にて永眠されました。女性を応援し続け、女子教育に生涯を捧げた82年の生涯でした。
 ご命日にあたり、校祖下田歌子先生の生涯のご業績と教育者としてのお姿に触れたいと思います。

 校祖下田歌子先生が残された業績を考えるとき、まず第一にあげるべきは、多くの困難を乗り越えて、女性の社会的な地位向上のための基礎(女子教育の礎)を築いたことです。私たちは今その財産の恩恵に浴しています。下田歌子先生は、女性の社会的な地位がほとんど問題にされなかった時代において、いち早く女性の地位向上と社会参画を目指し、その実現のための基礎が一般女性に対する教育にあることを確信し、女子教育に生涯を捧げた人物です。また、女子教育に関連する下田歌子の活動をいくつかに整理しますと、明治時代を代表する歌人であると同時に、著名な源氏物語講義に象徴される国文学者・国語学者でもありました。また『家政学』(明治二十六年刊、明治三十三年には『新撰家政学』も)は、女性の手になるオリジナルな著作として我が国初の出版でした。家政学者としての一面も忘れてはなりません。さらに大正期における愛国婦人会会長としての活動は、関東大震災が生んだ多くの社会的弱者に対する長期の救済活動に代表されますが、社会福祉事業家としての側面も今後評価されるべきです。そしてこれらすべてが女子教育に役立てられていたことが女子教育者としての下田歌子の重要な側面です。すなわち、和歌の実作、添削を通しての(感性)教育であり、源氏物語講義を通して古典を読む力を養うとともに女性が持つべき教養を涵養する教育に活かしたのです。

(タマスダレ 西門プロムナード)

 ここで、下田先生の教育者としての具体的な一面について触れたいと思います。私はかつて下田先生から直接に薫陶を受けた卒業生の方々から、先生の教育についてお話をうかがう機会がありました。具体的な内容を記す余裕はありませんが、みなさんのお話から共通して感じられたことは、下田先生の教育が、女性の自立を強くめざして、極めて具体的、個別的であったことです。個別的というのは、生徒の生まれ育った環境(実家の家業なども含む)や本人の性格、目指そうとしている方向などに即して、具体的な指針を与えていました。
 このような様子がよく分かる証言が、先生の没後二十七周年を記念して、教え子たちの思い出の数々を中心にまとめられた『竹のゆかり』(昭和三十八年十月 非売品 平成二年四月復刻)に見えていいます。一部を引用します。

 一ヶ月に一度位個人教授と云うのがあって、先生と二人だけで、先生は各人の個性や環境によってそれぞれお導き下され、私共も自分をありのままさらけ出して自分の行く道を教えて頂きました。その親切と愛情は全く慈母のようで、お互いの心は一つに解け合う事を感じます。

 また、同窓会会報「なよ竹」(第二十五号 昭和十二年七月)に見える記事も一部引用します。

 (当時の)社会は今日と全く事情を異にしてまだ女子の職業に就くことを侮蔑した時である。女子職業の門扉は堅く閉ざされて居た時であるにも拘わらず、私は時事新報の記者となった。当時誠に姑息因循なりし私が進んで男性の中に突入して就職したのは、全く先生が「女子職業の開拓の為に奮発せよ。時事新報ならば必ず福澤先生の余薫があろう、先生は婦人の擁護者である、大人格者である、時事新報をば辱しむるな、事あるときは毅然とて立て……」と激励された其御語を力に断然決心して入社したのであった。当時上流婦人の教育に従事された先生は、又かく一般婦人の往くべき道も、時代に率先して指導されたのであった。

 下田歌子先生は女子教育者であることを措いて語れません。明治・大正・昭和の時代を、一貫して女性の自立を応援し続け、抽象的にではなく個別的、具体的に生徒を鼓舞し続けました。
 校祖下田歌子先生のご命日にあたり、先生のご遺徳を偲ぶとともに、下田先生の志を受け継ぐ者として決意を新たにしています。

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