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下田先生のご命日によせて 2017年10月07日

 10月8日は、校祖下田歌子先生のご命日です。
先生が亡くなられたのは、昭和11年(1936年)10月8日のことでした。すばらしい「源氏物語」の講義をはじめ、先生は、亡くなるまで現役の校長として講義を続けられ、学校での教育に力を注がれました。病身をおして、亡くなる10日前まで学校に通われたと聞いています。車椅子で講堂に出て講話をし、それもできなくなると、校長室の前で話をされたようです。
 先生は、安政元年(1854年)、現在の岐阜県恵那市岩村の平尾家の長女としてお生まれになり、鉐(せき)と名付けられました。実践女子学園では、中学2年生が移動教室で岩村を訪れ、先生のお墓参りをしています。そのふるさと岩村では下田先生を尊敬し学習をしている恵那市立岩邑(むら)中学校のみなさんにもお会いしました。先生は、父親が兄に教えるのを聞きながらなどして、幼い頃から、和歌俳諧、国学に親しんだといいます。そして、先生は17歳のときに父のもとに上京します。翌年、和歌の先生の推薦を受け、宮中に仕えます。優れた和歌の才能を認められ、「春月」という題をいただいた折には、「手枕は花のふぶきに埋もれて うたたねさむし 春の夜の月」と詠み、皇后陛下(後の昭憲皇太后)から誉められ、「歌子」という名を賜りました。
 明治12年(1879年)周囲から惜しまれながら宮中を下り、翌年、下田氏と結婚し、下田姓となりました。しかし、当時の大臣をはじめとした周囲の要望と援助によって、麹町の自宅に「桃夭(とうよう)女塾」を開き、政府の高官のご息女たちが集まり、和漢文、習字、歴史、裁縫、修身などを指導しました。
 明治維新という荒波の中で病床の人となった下田氏は、先生の献身的な看病の甲斐なく、明治17年(1884年)に亡くなられました。夫の死後、先生は皇后陛下のご意向で始まった今の学習院の前身である華族女学校の創設準備に加わりました。そして、明治19年(1886年)校長に次ぐ学監になりました。
 明治26年(1893年)、40歳となった先生は、明治天皇のお二人の内親王様の教育掛の命を受け、英国王室の王女教育事情を知ることを主として、欧州各国の女子教育視察のため、渡欧しました。その2年間の視察では、祖国日本の危機を感じながら、先進諸国の女性の自立したものの考え方や生き方に触れ、近代国家建設のためには、上流の女子教育だけでなく、一般大衆の女子教育の大切さを知ることとなりました。毎年、中学3年生が運動会で踊っている「メイポールダンス」もこの視察でもちかえられたものの一つです。
 明治32年(1899年)、先生は新時代を生きる日本女性としての教養と自覚を高め、当時の生活を見直していくという思いにより、実践女学校および女子工芸学校設立を実現したのです。この「実践」を校名に掲げたことは、設立当時としては極めて新鮮な発想でした。女性の自立への自覚と、教養を高め、生活技術を身に付けることを望みました。その先生の思いを受け継ぎ、これからも生徒のみなさん一人ひとりが、高い志と品格をもって、仕事と家庭を両立できる高い社会的スキル、将来を生き抜く力を獲得して、自らの生きる道を切り拓いていって欲しいと思います。下田先生は明治の時代に世界を視野に活躍して欲しいと、校歌の一節にあるように『にほへやしまの外までも』の言葉を残しています。
 グローバル化の進む今の社会においても、下田先生はみなさんを励ましていてくださいます。この日を期に、これから世界を舞台に活躍していく自分の姿をイメージしていって欲しいと思います。教職員一同、それを応援していきます。